日本に残る2個半の良心。
日本に残る2個半の良心。
森友事件について公文書の十数か所の書き換えがあったこと。
安倍総理婦人や複数の政治家の名前がそこから消されていたことが判明した。
総選挙で自民党が圧勝して、もはや過去のことになりかけたのが、ここまで大きな騒ぎになるとは思わなかった。
今日はこのこと自体ではなくて、もう少し側面からこのことを書いていこうと思う。
安倍総理なり、婦人なりが直接、明確な圧力をかけたというような事実はおそらくないだろう。
ただ、自分の出世を命と考える官僚たちが権力者たちのいくばくかの行動(婦人が視察したり、関係団体に名前を連ねたり、あるいはよろしくおねがいしますと軽く発言したこと)などを先回りして、とらえて、とにかくその意向を汲んで、迅速に物事を進めてきたのだろうと思う。
内閣人事局ができて出世が命と考える官僚たちの目は、政務次官だけでなく、そのうえの政府中枢にいかに気に入られるかというドライブがより強く働くようになった。
私は「人が自分の家族以外の第3者のために・・・・」と発言したときは、その裏を考える。その真意をはかる。
人は自分の家族以外のために、自分を犠牲にしてまで他人のために動くことは基本的にはないと思っている。
もう少し正確にいうと
「人が(家族以外)の第3者のために頑張ると言っているのは、
その人の余裕のある損のない範囲で活動しているか、
または、人のためと言いながら、実はその人の利益のために活動しているに過ぎない」
このどちらかだと思っている。
自己犠牲的な英雄的な例で、再三 引っ張り出して申訳ないが、東京消防庁の方々が被ばく覚悟で福島原発に放水に行かれた。
その姿に多くの国民は心を打たれて、頭を下げただろう。(私もそうだ)
映画でも「人類を救うために命を懸けて戦う」みたいなストーリーは感動呼びやすく、人気が出やすい。
なぜか。
そんな東京消防庁の方たちのような(見返りを求めない)自己犠牲的な行動をする人は実際には非常に少ないからだ。
野党も含めたすべての政治家は「国民の幸せ」といっているが、
実は「権力に近づきたい(総理大臣になりたい。そこまで行けなくても〇〇大臣になりたい」か
「選挙で当選して人々に認められた」という承認要求を満たしたいか
大半の政治家は、野党も含めてこのどちらかだろうと思う。
初心こそ「この地域の人々のために」「国民のために」という気持ちはあったとしてもそれを長期間、最優先にし続けることはとても難しいと思う。
だから、自分の当選のために選挙の直前の簡単に政党を変えたり、変えようとしたりできるのだと思う。
そんな中で今回の騒動の中で私は2つの日本の良心を見た気がする。
(少なくとも権力にすり寄っていかない、ある程度の正義をつらく抜くという意味)
1つ目は
大阪地検の幹部。
普通は総理大臣が絡めば手をひくなり、そこそこのところで事態をおさめようとするだろう。
その気配がない。
(最も地検という組織の出世には総理大臣は一切タッチできない仕組みなのかもしれないが)
2つ目は
公文書書き換えの情報をリークした官僚。
下手をすれば、彼(ら)は官僚としての人生を失ったかもしれない。
これからも失う可能性があるだろう。
それでも勇気を振り絞ったのか?
どうしても憤慨したのか?
自分の人生を賭けてリークしたのだろう。
普通の官僚が良心に基づいて行動したのか?
あるいは、いざ政権交代のときに官僚事務を回せるように自分の思想信条を押し殺して、さも体制側のようにふるまう官僚機構に潜むスリーパーがリークしたのか?
そしてもう一つ。(これは私的には0.5個の扱い)
朝日新聞。
この情報がもし、誤報だったら、新聞社として存続できなかったかもしれない。
書き換え前の文書と書き換え後の文書の写し両方を手元に置いて報道したようには思えない。
ある程度の情報をえて、その信ぴょう性を何らかの方法で確認したうえで、報道したのだろう。
ほんの少し日本の良心を見た感じがしている。
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